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夢で逢えたら

これも上京して間もない頃の話です。

専門学校の講師を始めて間もなく、とある制作会社の方から学校に「Saxの先生いない?」という問い合わせがあったそうです。
学校にSaxのコースは無かったのですが、電話を受けた事務の方が「そういや、森山くんSax持ってたな」というのを思い出して「ああ、いますよ」と答えたそうです。
そしたら速攻で「お仕事お願いします」と決まったそうでして…(^_^;)

Sax吹けるとは言え、そんなたいそうな腕前でもなかったので速攻断ろうかと思って電話に出ましたが、お話によるとこれから全国ネットで売り出す大阪のタレントさんが、番組の中でSaxを使うので指導して欲しいとのこと。
あーそれなら何とかなりそうだということで、結局受けちゃったんですけどね(^_^;)

「で、どなたですか?」
「ダウンタウン松本さんです」

 松 ち ゃ ん や ん !

というわけで、それから隔週で当時まだ曙橋(河田町)にあったCX(フジテレビ)に通うことになります。
1回2週撮り、月曜日打ち合わせとネタ決めで、土曜日収録でした。

土曜日の撮影の時は、専門学校の学生さんを「見学」と称して毎回2名ずつ引率していきました。
兄夫婦も連れて行ったことあります(^_^;)

CXに限らず、当時はセキュリティなどというものは事実上存在せず、局舎に入るときも何も言われず、受付で「夢で逢えたらの収録です」と言えば当日の収録スタジオを教えてもらえたものでした。
まあマスコミに限らず、どこの業界(企業)も出入りは緩かったですからね。
今はどこもIC使ったIDカードが必須でしょうけど。

一応月曜日に楽譜を渡され、松ちゃんに運指を教えるのですが(自分-ソプラノ/松ちゃん-テナーなので運指は同じ)本番でなかなか上手く行かないことが多く、いつも2カメさん(センターのカメラ)の横に立って運指を指示していました。

番組の内容についてはここで書く必要も無いでしょう。
ご存じない方は夢で逢えたら (テレビ番組)の「バッハスタジオII」の項目をご覧になれば良いかと。

当時は本当にいろんな仕事が転がっていて、それがちょっとしたツテですぐに入った時代だったんですよね(遠い目)

その後間もなく「片側顔面痙攣」という病気を患い、アンブシュアを作れなくなったためSaxを吹けなくなってしまいました。(その後開頭手術で痙攣は無くなったのですが、麻痺が少々残ったので…)
20年近くしまったままで勿体無いんだけど、やはり体の一部のようなもんだから手放せないんですよねぇ
(´・ω・`)
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YAMAHA SY99

PCMデータ処理(波形編集)の仕事を始めたわけですが、最初はSY77用の別売WaveCardの制作から入りました。
メモリーサイズも512KiBと小規模なもので、波形数も大して入らないので駆け出しにはピッタリの仕事だったんですね。

そうこうしているうちSY77の上位モデル(SY99)の話が出てきて、その波形制作を始めることになりました。
メモリーサイズがSY77の倍(4MiB→8MiB)に増えることもあり、主にSY77搭載波形のブラッシュアップと新規波形の追加です。
そして本社及び各拠点(東京・ロス・ロンドン)で波形を用意して、最終的に指定されたメモリーに収まるよう「会議」をします。
必要であればその場で修正作業(殆どがメモリーサイズ削減)をするので、当然のように会議に同行しなければなりません。

この時は浜松に3週間缶詰になり、その間海外のスタッフ、つまり外国人と寝食を共にします。
でもエイゴゼンゼンワカリマセーン(今でもw)

初めて外国人と仕事をしたのですが、当然の如くカルチャーショックありましたね。
当たり前か。
とにかく会議の場では主張はしっかりやらなきゃいかんと。

この時のエピソード(事件)は福田裕彦さんが時々イベントなどで話されていますね。
「イギリス人が音を聴き過ぎて耳から血を流した」
これ、話盛り過ぎですw
実際はちょっとかゆいのが気になって弄っていたら追い込みすぎて…というのが真相だったかと。
あと、ノルウェー人が食べ物が合わなくて病院搬送されたりもしましたが。

まぁいろいろあったものの、とりあえず東京から持って行ったサンプルもそこそこ採用されることになり面目が立ちました。

SY99はSY77の上位機種ではありますが、上位互換ではありません。
そもそも波形データは単なる追加ではなく差し替えたものが結構あるので、その時点で同じ音は出ません。

またLPFの特性もかなり変更されて、SY77に比べてキレが良くなっています。
技術的には音源LSIの仕様のかなりデリケートなところを突いたらしく、当時担当だった中田さん(現社長)が解決に奔走されたそうです。

SY99のプロトタイプは不揮発性メモリースロットのカバーの位置が違うなど、外観ですぐに見分けがつくものだったのですが、実はSoft Balletに貸し出していて、ライブやPVでガンガン使われていました。
印刷されていた仮品番はSY「チョメチョメ」だったので、さすがにそれは見えるとマズイのでSY99のシールで隠していたようです…(^_^;A

ここから怒涛の波形制作が始まり、シンセ系では後続のSY、サンプラーのA、EOS Bから、EX、Motif、CP等など、現在に至るまで波形をひたすら作り続けることになります。
とにかく波形が入るモデルなら何でもやるので、XG音源やPSR・TYROS、DTXなどなど、何をやったか並べていくのがもう超面倒w∩(〃・ω・〃)∩

シンセ関係は基本的に使わないものはどんどん処分する人なんだけども、SY99だけは手元に置いたままです。
やっぱり初めてのハード開発に参加した思い入れかなー。
殆ど使わないので、未だ新品同様のまま箱に入っていますよ(・ω・ ;)(; ・ω・)

YAMAHA C1

ちょっと時代は遡ります。

インストラクター末期の頃、昭和63年(1988)にミュージックコンピューターC1なるものが発売されました。
生産完了品 C1(ヤマハ公式サイトから)
QXではなく、CXの進化形ということですね。

基本的にはIBM PC/AT互換機ですが、その中で東芝J3100に最も近いと言われていました。
とは言え、MIDI IN x 2 , MIDI OUT x 8 に加え、コントロールスライダー2基を搭載。
さらにMacなどを意識してマウスが使えるGUIのシーケンスアプリを標準搭載していたんです。

んで、浜松で支店インストラクターの研修やるのでお前行って来いということになりました。
実はこの時初めて浜松に行ったことになります。
X-DAYとかで東京には時々行ってたんですけどね。

当然「こだま」に乗ったんですが、往きに乗車したのが当時登場したばかりの100系新幹線9000番代(先行試作編成)だったのです!\(^o^)/
普通の100系新幹線は2席で一枚窓なのですが、9000番台は1席ごとの小窓なんですよ…
おっと話が逸れた(^_^;)それはさておき

研修会場は中沢の本社ではなく当時浜松駅前にあった「プレスタワー」というビルで行われました。
講師は開発を担当された中田さんという方です…つまり現社長ですね(゚д゚)!
当時はまだ肩書なかったか、あるいは主任だったと記憶しています。

その翌年インストラクターを辞めて上京ということになります…が、翌々年再びヤマハに「戻る」とその情報が回っていたんですね。

当時デジタル楽器の、お客様からのお問い合わせの電話は3Fで受けていたのですが、さすがにコンピュータのことまでは対応しきれないという担当者からの要望で、じゃあC1だけ森山くんに対応して貰おう、ということになったのです。

波形処理業務をやりながらその都度電話対応していたわけですが、使い方等のご質問に関しては無難に対応出来ていたものの、困ったのは周辺機器、特に外付けHDDの互換性に関してのご質問ですね。
何しろ当時は20MByte(誤記ではありません!)でお高い万円の時代。
お客様にしてみれば「授業料」で済まされる金額ではありません。
これはさすがにこちらでは対応できないので、全て浜松本社に報告して確認をしてもらうしかありませんでした。

そのうち波形処理業務も多忙になり、窓口も本社に一本化ということで、程なくこの業務からは外れることになりました。

イギリス人がやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!

ヤマハと契約したのですが、専門学校の講義も当時週2日あったので週3日のペースで渋谷に通うことになりました。
時々従業員だと思っている方がいらっしゃるようですが、契約上はずっと「しがない出入りの一業者」ですw

そしてアメリカ(YAMAHA Corporation of America=YCA)から、波形処理ツールの使い方を教えに外人さんの来る日が近づいて来た訳ですが、「いきなり会って能力不足だと失礼だから」ということで、たまたまそのツールの使い方を知っているという日本人を呼んで事前レクチャーを受けるということになりました…

そしてその方(日本人)とツールについていろいろ話をしてみると…
なんだ、自分のほうが詳しいじゃん!
挙句、こちらが詳しい設定とか説明したりと、どちらが教えに来たのかわからない有り様です\(^o^)/
自分なりにやりたいこと、やらなければならないことを整理して、それを実現するためにはツールのどのコマンドを使ってどう実行すればということを約10日間(3週)ほど自習しただけなんですけどねぇ。

そしていよいよその日がやって来ました。
平成2年(1990)の5月後半だったと思います。
来日したチャーリーさんというアメリカ在住のイギリス人は、なんと貴族(本物)です!
どうだ驚け!貴族と知り合いになるなんてことは、この日本じゃそうそう無いぞw
(でも昔はヒッピーやってってウッドストックにも行ったとか(^_^;)よくわからない人です(/・ω・)/)

チャーリーさんは元々Prophet5などで有名なSequencial Circuits(以降SCI)で働いていて、Drum Traksなどの開発、つまりサンプリングのエキスパートだったのです。

SCIは経営難になり1987年にヤマハが買収。
そして技術や人がヤマハや、当時ヤマハの関連会社になっていたコルグに引き継がれて行ったのは有名な話です。
つまりチャーリーさんは波形処理のノウハウをヤマハに導入するということでSCI→YCAに移籍したということです。

今でもそうですが英会話はさっぱりダメなので、担当の方を通訳にしばらくあれこれ質疑応答。
殆どは向こうから「あれは知っているのか」「これをやるためにはどうしたら良いか」という問いかけですが、ほとんどクリアしたものばかりだったのでホイホイやってみせるとなんだ、全部解ってんじゃん!(日本語訳)という有難いお言葉。

で最後に
ひとつだけSpecial techniqueを教えてやる。
サンプリングレートを落とすときはResampleではなく、Pitch Shiftを使え。

どういう事かというと、サンプルメモリーをケチるにはサンプリングレート(以降fs)を落とすことが当時としては当たり前でした。
ただし等価交換の法則標本化定理から高域特性が犠牲になります。
とはいえ音色によってはかなり使える技だったんですね。

サンプリングレートを落とすということはサンプルの時間間隔を任意の幅に変更するわけですから、当時は1次関数を使った2点補間や、ラグランジュ4点補間が一般的だったと思われます。

しかしピッチシフトを使うということは、フェーズボコーダ-(楽器に搭載されるチャンネルボコーダ-に非ず)あるいはPSOLAが噛んでいるかも知れないってことです。

例えば fs=44.1kHz / C3 の音をピッチシフトで1オクターブ上げると fs=44.1kHz / C4 の音になるわけですが、このファイルのヘッダー情報fsを22.05kHzに書き換えれば読み出し速度が半分になるので fs=22.05kHz / C3 の音になり、これはリサンプルで22.05kHzにした音(補間処理)とは違うぞよ、ということです。

もっとも今はハイレゾの時代ですし、リサンプル自体やらないのでこれも過去の話になってしまいました。

そう、この時代はメモリーを如何に節約するかということが非常に重要で、そのために常にメモリーとクオリティの等価交換をやっていたのです。
まさに錬金術w(・∀・)

YAMAHA R&D東京と契約(出戻り)

そして上京して一年後の平成2年(1990)
とりあえず専門学校の非常勤講師として週4コマほどの枠を担当することにはなったものの、さてそれからどうすんべと、学生さんたちと日向ぼっこをしているところに通りかかったのが大浜和史さん。

開口一番「あのさぁ、さんちゃん(山宮興さん)辞めて、人居なくて困ってんだけどウチ(ヤマハ)来ない?」
もちろん二つ返事で(ry

しかし今思えばよくここまで生きてこられたもんだと自分でも感心します。
当時はホント何にも考えずに行きあたりばったりだったもんねー∩(〃・ω・〃)∩

というわけでホイホイヤマハ渋谷店の3Fまで行って、担当者の○さんからお話を伺うことに…
なんですが、これが何とも要領を得ない。

まず複数台のコンピュータと、それに繋がった剥き出しのブレッドボード(開発用基板)を見せられて「これを使うとあーたらこーたらできるらしい」って…

ちょっと待ったらんかい!動かしたこと無いのかよ!!!

なんでも一ヶ月後に外人が来て、くあしいツールの使い方を教えてくれるからうんたらかんたら。
それまでは練習(研修)を兼ねて自習してろとのことです(´・ω・`)

そう、これがPCMデータ処理(波形編集)システムで、以後、システムの形態は変わって行きますが今日に至るまでこの仕事を続けているわけでして。
もっとも最近では制作業務は若手(教え子だったりしますが)中心に移行して、専ら調査・研究開発の業務が増えてきました。
まぁ本来のR&D(Research & Development)になってきたわけですが。

とはいえ波形編集のノウハウなんざ世間に転がっちゃいませんし、レクチャーしてくれる人はもちろん有用な情報なんぞさっぱり有りません。
そもそもインターネットすら無い時代です。
つまり己が先駆者になってヤブを切り開いて道を造って行くしかないのです。

サンプリングについてはほぼド素人状態でしたが、まぁ他にやることがあるわけでも無し、お金貰えるんだったら行けるとこまで行こうと腹を括って契約書にサインしました。
「大ガミラスに撤退の二文字はない。勝利か然らずんば死かだ。」 アベルト=デスラー
正確にはヤマハ(当時は日本楽器製造)の電子楽器開発部門との契約です。

これ以降、ほぼPCM一筋の道を進む(というより造って行く)ことになります。
R&D東京看板

R&D東京は1985年開設。大浜さんはプロデューサーでした。


1990年に契約。


1998年R&D東京は電子楽器開発部門のみに縮小、アーティストリレーションを含む他部門はARTに改組。
R&D東京→ARTに完全移行のように認識されていますが、消滅した訳ではなく、以後も細々と3Fの隅で開発業務を続けていたのです。


道玄坂からの撤退発表。
2010年春に一足先に自分の仕事場を社外に遷し、長年通った渋谷から退去。年内にはR&D東京も移転。(まだ存続しています)


2010年末には渋谷店閉鎖。


翌2011年にはARTも銀座に移転となり、道玄坂からヤマハの拠点はついに消滅したのであります。
( -人-)

JSPA

上京する前年、つまり昭和63年(1988)に「任意団体 日本シンセサイザープログラマー協会」として発足していた事は知っていましたが、ふとしたことがきっかけで上京した翌平成元年に入会しました。
当時は規約もまだ十分に整備されておらず、「ああ、森山くん?入会してもらってもいいんじゃない?」というノリだっと記憶しています^^;

当時は打ち込みやシンセの音作りをしている「マニピュレータ」と呼ばれる人たちが、主にスタジオでの仕事で不当な扱いを受けることが多く、その待遇改善を各方面に要求したり、打ち込んだ演奏情報に対して著作隣接権(二次使用料を)を認めてもらう活動が中心でした。

その後業界団体も整備され、主に問題になっていた不払い等を行う悪徳業者の締め出しなどのルールも徹底されるようになって、かなり改善されたようです。
また打ち込みに対しても著作隣接権が認められたため、その年に結構な「ボーナス(過去分の支払いが一気に来た)」をもらった方もいらっしゃったとか。

その後の協会活動はMIDI検定に移り、3級立ち上げ時の試験運営や、2級ガイドブックの執筆などを担当しました。
実は2級ガイドブックは各担当者がそれぞれ1章ずつの執筆予定だったのですが、別の担当者が長期レコーディングに入ったため、僕がその分と併せて2章書くことになったので結構大変だったのです…(^_^;)
まぁそのおかげでこんなものを頂戴したわけでして
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ご覧になった方はあまり多くないと思いますが
MIDI LICENSE 特別認定証
つまり「級無し」の扱いです。
ずるいですね、ともよく言われますw。
099は取得した年
0032は取得番号
ということになりますが、特別認定証については番号はエライ順(らしい)です(/・ω・)/
一桁台はエライ人やスゴイ人が名前を連ねている(らしい)とか。
僕はあまりエラくないので32番というわけです\(^o^)/

その後MIDI検定からは離れ、主に協会主催のイベント関係のスタッフとかで時々協会活動に参加はしていたのですが、昨年度(2014)、今年度(2015)と技術委員を拝命したもののほとんど結果が出せず、今後協会に籍を置いていてもやることがないだろう、という結論に達し、平成27年度を以って退会することにしました。

※平成24年(2012)に一般社団法人化しているので、それ以降は法律上
会員→社員(≠従業員)
退会→退社(≠退職)
が正しい表現になりますね。

1年間の勤め人

というわけで平成元年(1989)4月からフルタイム、当時はまだ完全週休2日制ではなかったので、月〜土(半日)の勤務です。

ただ…正直給料死ぬほど安い(紹介した人から聞いた半分…)、仕事キツイ、残業多くて自分の時間全くない、社会保険(健康保険/年金)無しという、今だったら速攻アウトの事案ですヽ(`Д´)ノ

平成2年(1990)も明ける頃、ここを辞めてコンビニのバイトでもやった方がはるかにマシだと思い始めた2月頃、ヤマハからSY77発表のアナウンスがありました。
場所は原宿駅前のイベントスペース。

久々に知り合いの顔も見たかったので言っていろいろ話して、現在(上記)のような話をしたところ何人もの方から「君にそんなことをさせるために東京に送り出したんじゃない。すぐに辞めなさい。」と厳しいお叱りの声を頂戴しました。

もう迷うことはありません。

次の仕事も決めないまま3月頭には辞表を出して、爪に灯をともすようにして溜めた預金10万円でこの先何とかしようと覚悟を決めました。

おら東京さ行くだ

結局インストラクターとして約4年仕事をすることになりますが、そこは地方の悲しさ。
他に大した仕事もある訳でも無しで収入もさっぱりです。

しかし時代はまさにバブルの絶頂期
やはりここは一発、東京に出るしかない!時代も昭和から平成に変わったことだし!!!
という無茶苦茶な考えをぶちあげて(いや、何も考えてなかったんだろうな…)ちょうど働き口の紹介もあったので上京する決心をしました。

周囲から反対されるかとも思ったのですが、「森山君だったらきっと大丈夫だよ」という励ましの声ばかり。(^_^;
まぁ周りも大丈夫って言ってるんだからたぶん大丈夫だろうなと、妙な自信をつけて平成元年4月に上京します。

荷物は数台の機材とダンボール7個の身の回りの品だけ。\(^o^)/
あとは引っ越し他で残高が数万円になった預金通帳、という背水の陣で勝負しなければなりません。

YAMAHA QX1

インストラクターになってからDX7 CX5だけでは当然力不足になってきます。
ということでRX11(リズムマシン)こそ購入しましたが、他の機材はメーカーから借りることができたので当初はそんなに困ることはありませんでした…が、店頭デモ演が増えてくると、さすがにCXの打ち込みだけではなんともならなくなってきます。

QXシリーズ(MIDIシーケンサー)はいくつか出ていましたが、まともに打ち込みできるものといえばQX1しかありません。
しかしさすがに定価48万円ともなると、貸出できる備品も無いとのこと…
んぢゃ、いっそ自腹で買っちまえ!
ということで行きつけの楽器店で購入。

しかし割り引いてもらっても39万円。とても現金一括では払えません。
もちろん当時はクレジットカードなんぞ持っていませんし、ローンが通るほどの身分でもありません。
楽器屋の店員さん曰く「森山くん、最初に20万入れてくれたら、残り19万はいつでもいいよ」と神のような言葉。
ありがたい限りです\(^o^)/

もちろんしっかりそのQX1で稼ぎまくって、半年後にきっちりお支払いしましたよ。

その地方でも大きな楽器店だったので、今だったらまず考えれられないことですが、当時はいろいろおおらかな時代でした。

今でも5インチフロッピーは何枚か持っていますが、肝心のQX1は専門学校の卒業生に貸したら、卒業生ごと行方不明になったままです…(´・ω・`)

インストラクターというお仕事3

結局楽器メーカー営業のインストラクターを4年ほどやりました。

現在は会社組織も大きく変わりましたが、当時は国内に支店がいくつもあり、支店の規模にもよりますがそれぞれインストラクターを抱えていました。
年代的には当時20〜30歳くらいの人が殆どだったと思います。
電子楽器のデモンストレーションは商品の性格もあるのですが、昔は駆け出しの若いモンがやるイメージだったんです。

もちろん自分は一番若造でしたが、ある時「生福」(生方ノリタカさん/福田裕彦さん)セミナーのサポートで現場に入った時、都合で来られなくなった福田さんのトラ(代演)で入った17歳の高校生A君(バレバレですねw)にはぶったまげましたねΣ(゜∀゜ノ)ノ
その後、彼も同じ楽器メーカーの仕事をするようになり、R&D東京に行くようになってからも何度か顔を合わせることがありましたが、やがて某バンドのサポート、そして自分のバンドでデビューして紅白にも出演されることになります。

そのまま楽器メーカーの従業員になった方も何人かいらっしゃいますね。

しかし地方での活動に限界を感じ始め、昭和から平成の御代に変わる頃東京への移住を決意。
この仕事も離れることになりました。