YAMAHA R&D東京と契約(出戻り)

そして上京して一年後の平成2年(1990)
とりあえず専門学校の非常勤講師として週4コマほどの枠を担当することにはなったものの、さてそれからどうすんべと、学生さんたちと日向ぼっこをしているところに通りかかったのが大浜和史さん。

開口一番「あのさぁ、さんちゃん(山宮興さん)辞めて、人居なくて困ってんだけどウチ(ヤマハ)来ない?」
もちろん二つ返事で(ry

しかし今思えばよくここまで生きてこられたもんだと自分でも感心します。
当時はホント何にも考えずに行きあたりばったりだったもんねー∩(〃・ω・〃)∩

というわけでホイホイヤマハ渋谷店の3Fまで行って、担当者の○さんからお話を伺うことに…
なんですが、これが何とも要領を得ない。

まず複数台のコンピュータと、それに繋がった剥き出しのブレッドボード(開発用基板)を見せられて「これを使うとあーたらこーたらできるらしい」って…

ちょっと待ったらんかい!動かしたこと無いのかよ!!!

なんでも一ヶ月後に外人が来て、くあしいツールの使い方を教えてくれるからうんたらかんたら。
それまでは練習(研修)を兼ねて自習してろとのことです(´・ω・`)

そう、これがPCMデータ処理(波形編集)システムで、以後、システムの形態は変わって行きますが今日に至るまでこの仕事を続けているわけでして。
もっとも最近では制作業務は若手(教え子だったりしますが)中心に移行して、専ら調査・研究開発の業務が増えてきました。
まぁ本来のR&D(Research & Development)になってきたわけですが。

とはいえ波形編集のノウハウなんざ世間に転がっちゃいませんし、レクチャーしてくれる人はもちろん有用な情報なんぞさっぱり有りません。
そもそもインターネットすら無い時代です。
つまり己が先駆者になってヤブを切り開いて道を造って行くしかないのです。

サンプリングについてはほぼド素人状態でしたが、まぁ他にやることがあるわけでも無し、お金貰えるんだったら行けるとこまで行こうと腹を括って契約書にサインしました。
「大ガミラスに撤退の二文字はない。勝利か然らずんば死かだ。」 アベルト=デスラー
正確にはヤマハ(当時は日本楽器製造)の電子楽器開発部門との契約です。

これ以降、ほぼPCM一筋の道を進む(というより造って行く)ことになります。
R&D東京看板

R&D東京は1985年開設。大浜さんはプロデューサーでした。


1990年に契約。


1998年R&D東京は電子楽器開発部門のみに縮小、アーティストリレーションを含む他部門はARTに改組。
R&D東京→ARTに完全移行のように認識されていますが、消滅した訳ではなく、以後も細々と3Fの隅で開発業務を続けていたのです。


道玄坂からの撤退発表。
2010年春に一足先に自分の仕事場を社外に遷し、長年通った渋谷から退去。年内にはR&D東京も移転。(まだ存続しています)


2010年末には渋谷店閉鎖。


翌2011年にはARTも銀座に移転となり、道玄坂からヤマハの拠点はついに消滅したのであります。
( -人-)

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